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映画 「氷雪の門」 を視てきました。 [特定アジア]

シネマイーラで「氷雪の門」を視てきました。

 尖閣問題、靖国問題など今でこそ中国が仮想敵国になってましたがほんの20年ほど前はソ連「ロシア」が脅威となっていました。
 そして教科書では8月15日が終戦と教わっていましたが樺太、千島列島では9月まで壮絶な戦闘が行われていました。そんな中9名の電話交換士の最期を描いた映画。
 とにかく涙なくして視れませんでしたね。

story02.jpg

 ここで学んだことは「勝てば官軍」。
如何にソ連が卑怯でも勝ってしまえば正義なのです。

帰宅して調べてみると、日本は南樺太、千島列島を失いましたがスターリンは北北海道の占領を考えていたようです。それを断念したのは南樺太の日本軍の抵抗だったようです。
さらに調べていくと戦死者はソ連のほうが多かった事実。
これはアメリカが日本を恐れ洗脳教育をしてまで骨抜きにしたかったわけです。以下関連リンク。
是非読んでください。

-----Japan On the Globe(203) 国際派日本人養成講座----------
_/_/
_/ 地球史探訪:終戦後の日ソ激戦
_/_/
_/ _/_/_/  北海道北部を我が物にしようというスターリン
_/ _/_/ の野望に樺太、千島の日本軍が立ちふさがった。
-----H13.08.19----35,299 Copies----302,006 Homepage View----

■1.北海道北半分をソ連に■

 1946(昭和21)年8月16日、終戦の日の翌日、スターリン
は米大統領トルーマンに対して、釧路市と留萌市を結ぶ線以北
の北海道の北半分に対して、ソ連側の占領を認めるよう要求を
送った。

 同年2月11日に、米英ソの指導者が結んだヤルタ協定では、
樺太の南半分と千島列島がソ連に引き渡されるよう決められて
いたが、これをさらに北海道北半分にまで拡げよというのがス
ターリンの新たな要求だった。樺太、千島列島、北海道北半分
をソ連圏内に収めてしまえば、オホーツク海はソ連の内海とな
り、太平洋への出口も自由になる。

 このスターリンの野望により、終戦後も激しい日ソ間の戦い
が樺太と千島で展開されることになった。

■2.樺太国境での激戦■

 終戦の日のわずか1週間前のモスクワ時間8月8日午後11
時、ソ連は佐藤駐ソ大使に対して宣戦布告文を手渡し、その一
時間後に攻撃を開始した。翌46年4月まで有効であった日本
との中立条約を一方的に破棄し、さらにソ連に和平仲介を依頼
していた日本政府に対して、宣戦が布告されたのである。樺太
でも早速9日朝から、国境線を超えてソ連軍の散発的な砲撃と、
小部隊の越境偵察が始まった。

 樺太はもともと日露混住の地であったが、明治8(1875)年の
樺太・千島交換条約により、樺太はすべてロシア領、千島列島
はすべてが日本領となった。明治38(1905)年の日露戦争の勝
利の結果、北緯50度以南の南樺太が日本に割譲された[a]。
南樺太の面積は四国の約2倍にあたり、終戦時の人口は季節労
働者を含めて約40万人であった。

 南樺太への本格的な侵攻は10日から始まった。戦車95両、
航空機100機を持つ第56狙撃軍団が、国境近くの小集落・
半田を攻撃し始めた。ここでは陸軍2個小隊と国境警察隊の約
100名の兵力が防戦し、大半が戦死したが、ソ連軍主力を一
昼夜にわたって食い止めて、ソ連軍には大きな衝撃を、日本全
軍には異様な感激を与えた。

 半田を落とした後、ソ連軍は国境から10キロほどの日本軍
の主防御地帯への攻撃を開始したが、日本の歩兵第125連隊
約3千人が森林や山岳を利用した永久陣地にこもって頑強な抵
抗を示し、ソ連軍に足踏み状態を続けさせた。その間に老幼婦
女子を列車で南に避難させ、なおかつ主要な鉄橋を次々と爆破
して、自らの全滅を賭してもソ連軍南下を防ごうとした。

 15日正午、ポツダム宣言受諾に伴い、天皇の終戦に関する
「玉音放送」が行われた。国境沿いで戦闘中のため連絡のとれ
ない第125連隊にも、18日にようやく戦闘停止の師団命令
が伝達され、連隊は武器をソ連軍に引き渡した。これまでの戦
闘による被害は日本側死者568名、ソ連側死者約1千名、戦
車数十両破壊と推定されている。

 日本側は邦人保護のため、ソ連軍に現地で留まるよう要請し
たが、ソ連側は傲然と拒否して、南下を続けた。

■3.8月18日、ソ連軍、占守島強襲上陸■
 
 日本のポツダム宣言受諾が確認された15日、アメリカは即
座に全軍に戦闘停止命令を発したが、極東ソ連軍総司令官ワシ
レフスキー元帥は、樺太南西岸の真岡、および、千島列島北部
の占領を命令した。樺太ではまだ国境を越えたばかりであり、
千島には足も踏み入れない状態では、停戦後の占領は不確実で
ある。さらに継戦の必要があった。

 千島列島北端の占守(しむしゅ)島には、第91師団を中心
に、約2万5千が防備に当たっていた。カムチャッカ半島南端
とはわずか10キロ余の海峡をはさみ、ソ連極東から太平洋へ
の出口を扼する戦略拠点であった。

 ソ連軍は上陸用舟艇16隻など、計54隻の艦船、総人員8
千3百余名で、18日午前2時に占守島北端の国端岬に急襲上
陸を図った。まだ薄暗く霧深かったが、霧中射撃の訓練も十分
に積んでいた海岸配備部隊は、即座に敵を発見し、野砲、速射
砲などで猛烈かつ正確な砲火を浴びせた。

 撃破された船艇は確認されただけで13隻以上に達し、3千
人以上のソ連軍将兵が海中に投げ出され、死傷者が続出した。
しかしこの混乱の中をソ連軍将兵は泳いで上陸し、反撃を試み
た。この後、島北端の四峰山を巡って、激しい攻防が繰り返さ
れた。

■4.ソ連の悲しみの日■

 堤第91師団長は、優勢な師団主力を占守島北部に集中して、
一挙にソ連軍を水際に撃滅するという決心をし、準備を始めた。
しかし、それを知った方面軍参謀長から、18日16時までに
戦闘行動停止の命令が来た。日本軍は軍使の長島大尉一行をソ
連軍に送ったが、射撃されて死傷者続出し、長島大尉も単身敵
中に潜入して行方が分からなくなった。日本側が反撃行動を停
止しても、ソ連軍は攻撃を続行してきた。

 19日朝、再度の軍使が送られ、午後正式な停戦交渉が始ま
った。何度かいざこざがあった後、21日に正式な降伏文書の
調印が行われた。一日で占守島全島を占領し、急いで千島列島
を南下しようというソ連軍の計画は、日本軍の抵抗により大き
く狂ってしまった。

 ソ連側の記録によると、日本軍の死傷者は1,018名、ソ連側
は1,567名であった。イズヴェスチャ紙は「占守島の戦いは、
満洲、朝鮮における戦闘よりはるかに損害は甚大であった。8
月19日はソ連の悲しみの日である」と述べてた。激戦の行わ
れた四峰山では、戦後、戦没者の記念碑が建てられた。

■5.真岡への侵攻■

 北千島と共にワシレフスキー元帥が占領を命じた真岡は、樺
太の南西岸にあり、3千トン級の船舶数隻を同時接岸できる港
をもっているため、ソ連軍は真岡を北海道上陸作戦のための使
用兵力を大陸から送り込むための中継基地として考えていた。

 真岡はもともと人口2万の町であったが、16日夕から本土
への引き揚げが開始され、19日夕刻までに6千人が出航して
いたが、乗船を待つ避難民がまだ1万5千~8千人いた。

 真岡への攻撃は20日早朝に始まった。数隻の大型軍艦が町
中に艦砲射撃を行い、その後、上陸したソ連兵は山へ逃がれる
人々を背後から機関銃や自動小銃で掃射し、手榴弾を投げつけ
た。引き揚げ船へ向かう女子供たちの上にも、容赦なく砲弾が
降り注いだ。厚生省資料ではこの時の民間人犠牲者は約千名と
している。

■6.さようなら、これが最後です。■

 この時の悲話の一つとして伝えられているのが、真岡電話局
に残って、通信維持の使命に殉じた9人の乙女たちである。9
人は引き揚げの指示を断って、ソ連軍の砲撃開始後一時間半に
渡って、市街の惨状を報告し続けた。今も詩吟「氷雪の門」で
伝えられる最後の放送は次のようであった。

 内地の皆さん、稚内電話局のお友だちに申し上げます。
只今ソ連軍がわが真岡電話局に侵入いたしました。これが
樺太から日本に送る最後の通話となるでありましょう。私
たち9人は最後まで、この交換台を守りました。そして間
もなく、9人そろってあの世に旅立ちます。

 ソ連軍が近づいております。足音が近づいております。
稚内の皆さん、さようなら、これが最後です。内地の皆さ
ん、さようなら、さようなら、、、

 9人の乙女は青酸カリを飲んで自決した。戦後建てられた稚
内市の「乙女の碑」を昭和43年に訪れられた昭和天皇と香淳
皇后は深く頭を垂れて、冥福を祈られ、次の御製、お歌を残さ
れた。

樺太に命をすてしをたやめの心を思えばむねせまりくる

からふとに露と消えたる乙女らの御霊安かれとただいのる
ぬる

■7.真岡近郊での戦闘■

 真岡に付近にいた配属部隊は、すでに16日に終戦に関する
師団命令を受けて、真岡市から東方2キロの荒貝沢に移り、一
部の兵の召集解除を始めていた所であった。残っていた人数は
3~4百名程度と推定される。

 ソ連軍の急襲に、仲川大隊長は即座に17名の軍使一行を派
遣したが、一行は荒貝沢の出口付近でソ連兵に制止せられ、指
示に従って、武器を地上に置いた所を、突然自動小銃で乱射さ
れ、ほとんど全員が射殺された。

 21日朝から、ソ連軍は荒貝沢に接近して、戦闘が始まった。
荒貝沢は真岡から樺太最大の町豊原への途上にある。その豊原
は、樺太南部の交通の要路であり、避難民でごった返していた。
豊原に向かうソ連兵を一刻でも長く引きつけておくために、日
本軍将兵等は全滅覚悟で戦かった。

 近くからの応援も得て、日本軍は23日2時頃まで抵抗を続
けた。その間、ソ連軍は航空機による豊原攻撃を行った。豊原
駅前広場には避難民数千人が集まっており、駅には大白旗を掲
げ、救急所の天幕には赤十字が明示してあるにもかかわらず、
爆弾5,6発、焼夷弾約20発の攻撃を受け、駅前の避難民に
100人以上の死者が出た。

■8.スターリン、北海道侵攻を断念■

 トルーマンからは北海道北部のソ連占領を認めないという返
事が18日に届いたが、スターリンはすぐには応えず、ワシレ
フスキー元帥は、8月25日までに樺太全島と千島列島の北部
諸島、9月1日までには千島列島の南部諸島と北海道北半分を
占領するよう命令を出した。

 占守島への強襲上陸が始まったのが18日早暁、真岡侵攻が
20日早朝と、ソ連軍はトルーマンの回答を無視して、8月2
8日に予定されていた降伏文書正式調印(実際には9月2日に
延期された)までに、北海道北部占領を既成事実化してしまう
事を狙っていた。

 22日には、ソ連軍が上陸を予定していた留萌沖で、樺太か
らの引き揚げ民を満載した日本船3隻を潜水艦で攻撃した。う
ち2隻は雷撃により沈没。1隻は海軍の特設砲艦で、雷撃によ
り船尾を破壊されたが、浮上した潜水艦と砲撃を交わして、な
んとか留萌港にたどり着いた。この攻撃により民間人約170
0名の死者が出た。

 22日になって、ようやくスターリンはトルーマンあてに北
海道占領を断念する旨の回答を送り、ワシレフスキー元帥は
「連合国との間に紛争や誤解が生じるのを避けるために、北海
道方面に一切の艦艇、飛行機を派遣することを絶対的に禁止す
る」という電報を打った。

 22日は、千島列島北端の占守島の日本軍との間で降伏文書
の調印が行われた翌日で、それ以南の諸島はほとんどが手つか
ずの状態であり、また樺太では真岡近郊での戦闘の最中であっ
た。日本軍の頑強な抵抗により、ソ連としては樺太と千島列島
の占領を優先するためには、もはや北海道をあきらめざるをえ
ない状況に追い込まれたのである。

■9.樺太、千島の占領完了■

 24日早朝、アリモフ少将が戦車隊を従えて、豊原に到着し、
日本軍の施設をすべて接収し、樺太庁の行政も停止させた。こ
れにて樺太の占領は完了した。

 千島列島に関しては、24日以降、順次、日本軍将校を同船
させて小型艦艇数隻からなる偵察部隊が南下し、各島で日本軍
の降伏を受け入れながら占領を続けていった。

 択捉、国後については、当初は「アメリカ軍がやってくるは
ずだから我々は手をつけずにかえるのだ」と言って、上陸しな
かった。この二島はかつてロシア領になった事はなく、日本固
有の領土であった。したがって、ヤルタ協定でソ連に「手渡さ
れる」ことになっていた千島列島にこの2島が入っておらず、
日本本土の一部として、アメリカ軍の占領地域に入っていたと
解釈されても不思議はなかった。

 しかし、アメリカ軍が来ていないと知ると、ソ連軍は8月2
8日に択捉島に、9月1日に国後島に上陸した。さらに千島列
島に含まれず北海道根室半島の延長である歯舞諸島、色丹島に
も、ソ連軍はそれぞれ9月1日、4日に占領した。歯舞諸島占
領が行われた9月4日は、降伏文書正式調印の二日後である。

■10.終戦後の戦死者と民間人犠牲者■

 樺太および、千島の戦いでは、日本軍将兵約3千名、民間人
約3700名の命が奪われた。このほとんどが8月15日の終
戦以降のソ連軍侵攻によるものである。さらに捕虜にされた樺
太約1万8千名、千島約5万名の日本軍将兵は本土に帰ると騙
されて、シベリアなどに送られた。

 スターリンは14日の時点では捕虜のソ連領移送は行わない
と言っていたのだが、北海道占領を断念したとトルーマンに回
答した21日の翌日、日本軍捕虜50万人のシベリア移送の極
秘命令を出している。ロシアの研究者の多くが、これは北海道
占領断念の代償だったとしている。

 もし、樺太、千島での日本軍の頑強な抵抗がなければ、北海
道北部はソ連に占領されていた可能性がある。そうであれば満
州や樺太で起きた民間人虐殺が北海道でも繰り返されただろう。
そして、北海道北部は北朝鮮や東ドイツのように共産主義独裁
政権が支配していたであろう。樺太と千島の防衛に一命を捧げ
た日本軍将兵3700人と、その後のシベリア抑留に苦しんだ
約7万の将兵に心からの追悼と感謝を意を捧げたい。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(181) 北方領土交渉小史~スターリンの「負の遺産」





ソ連との戦い その2
◆ 歩兵第25連隊司令部、逢坂に転進する。
9日のソ連の宣戦布告で、第25連隊司令部は逢坂(真岡と豊原を結ぶ鉄道の駅で樺太山脈の頂上というと大げさだが、鉄道の一番高いところだ真岡の街は見えない。)に転進、真岡に第1大隊を移動させ、警備をしながら町民を海から、陸から避難誘導など行う。15日の終戦に伴い、師団からの命令で一部の小隊を残し熊笹峠に後退していた。

私たち分隊長以下10名は15日(終戦の日)夜、逢坂へ移動命令、弾薬を積んだトラック2台に分乗、16日朝、逢坂に到着、連隊司令部付きとなる。通信中隊長や見習士官たちと約半月ぶりに・・・。

17日にはソ連偵察機が偵察飛行、早速洗礼を受ける。外にいたわれわれを見るなり機銃掃射、慌てて松林の中に隠れる。この時「たこつぼ」に入った年配の召集兵が負傷する。上から見ると「たこつぼ」はまる見えの筈です。

逢坂を通る国道で20人ほどの避難する婦女子2組と逢う。列車が途中まででも通っていればいいのだが、鉄道は不通になっている。「豊原までは一晩野宿しなければ着かない道のりだ、でも、子ども連れ、これは何日で着くか分からない。ま、途中、たくさん民家もあるので何とか避難できる筈」と励まし、乾パン1袋ずつ渡して送り出す。


◆ 私も巡回中に、ソ連偵察機に発見され、銃撃を受ける。
19日、分隊手分けをして電話線路の巡回中、畑の中を歩いていると20mほど手前から、土煙が上がると同時に飛行機の爆音、「機銃だ!」と咄嗟に身をかわそうとする間に2m手前で土煙が消えた。横上を見るとソ連機、顔がはっきり見える。ソ連機自体、もう少しで低いと地上に。お互いこれで助かった。この時間、たった2、3秒の出来事。慌てて銃を撃つがもう間に合わない、自動小銃ならいざ知らず、単発銃だ。


◆ 20日早朝、爆音がする。真岡へのソ連軍の艦砲射撃。
20日早朝逢坂に爆音が届く。ソ連の艦砲射撃であった。
艦砲射撃を加えつつ真岡に上陸してきたソ連の1個旅団が、避難中の市民に無差別攻撃。市人500人以上も命を失う。街中も砲撃され焼け野原となる。ここでも、最後まで通信に携わっていた9人の女子電話交換手が青酸カリで自殺しています。最後の通信は北海道稚内郵便電信局の交換台にある言葉を残しています。詳しく知りたい方は「氷雪の門」或いは「北のひめゆり」で検索すれば多くの記事にぶつかるでしょう。


◆ 8月11日に函館山裾の家屋に咲いていた紫陽花。
 ◆ アジサイ。(ユキノシタ科アジサイ属) 







◆ 停戦の軍使射殺される。
ソ連軍を上陸させ、熊笹峠に後退していた第1大隊長は師団の命令で停戦のための軍使をソ連軍に派遣するが射殺される。 以下はその状況が書き残されている。

みんなは無言、先頭は遊佐兵長の白旗。その後に整然と隊伍を組んで進む。色々なことが脳裏を去来した。荒貝沢入り口にが近づいた。そこまでの距離は実に近く感じた。酒屋があり、付近には民家がまばらにある。無論人影どころか犬1匹見えない。

前方の様子が分からない。停止した副官は眼鏡を撮りだしてみたいたが、右手の小高い丘には何も見えない。前進、30mほど進んで鉄道踏切に差し掛かった時、突然、その丘の上にソ連兵が姿を現し、軍使の停止を求めながら近寄ってきた。

分隊は踏切の上にいた。副官は白旗の遊佐兵長、中前軍曹、通訳、金山軍曹とともに前に進み出た。分隊との間隔10mほど。副官は通訳を通じて話している。指揮官との会見を求めたのであろう。私たちのところからは何も聞こえない。

軍使を取り囲むようにして、10mほど手前で一旦止まったソ連軍は、銃をそこに置けと要求、村田中尉の指示で一行は道路端に叉銃すると、同行している軍犬もそばの電柱に縛るよう要求、その指示に従った。こうして武装を解いた後ソ連軍が近づいてきた。

軍使の申し入れに対し、ソ連軍は受け入れる様子がなく、一人のソ連兵が銃を構えて立ち撃ちの姿勢をとった。副官は胸元の銃口を手で横に押しやって尚話をする。金山軍曹のが懸命の通訳をしていた。その時、先程のソ連兵が突然副官の体に銃口を向けるなり銃を乱射した。

「伏せろ」、誰かの声で、私は副官の倒れる姿を見ながら線路脇の排水溝に飛び込んだ。ソ連兵が最初の乱射と同時に駆け集まって、自動小銃を構えて一斉に撃ち始めた。

私は小銃をとって排水溝を30mほど走った。溝の横が小高くなっているので、ソ連兵の位置から死角になって気づかなかったのだろう。そして、更に走って小山に登り、防空壕を見つけて飛び込んだ。ところがどうだろう。現場から50mほどの壕内に逃げ遅れた住民が入っている。北の方から来た避難民であった。銃声が止むのを待って「夜になったら部隊のいる方に逃げてくるように」言い残し、夢中で本部に向かって走った。

私は状況を報告した。仲川大隊長以下その時の顔を覚えていない。20分ほど遅れて遊佐兵長、太田上等兵が負傷し、血みどろになって帰ってきた。大隊長はこの時、初めて戦闘の腹を決めたのだろう。

◆ 明日に続く。


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hosoP

貴重なお話をありがとうございました。
どこの国も、都合の悪いことは後世に伝えないよう
画策するものだということを改めて思いました。
最近巷で有名になっているWikiLeaksのようになんでも
公開するのもやり過ぎだと思いますが、どうして
両極端になってしまうんでしょうね。。。

by hosoP (2010-12-05 22:21) 

出張者

hosoP さん:
いつもnics、コメントありがとうございます。
戦争を美化するつもりは無いですが祖国を守った話を伝えていくのは重要だと思ってます。
WikiLeaksによる情報公開は時期尚早と思いますね。
外交文書のように20年、30年経過したら公開するなら良いと思いますが。

by 出張者 (2010-12-06 20:42) 

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